2010年12月31日金曜日

カンペ目線

トーク番組や音楽番組を見ていて気になるのが、司会者の「カンペ目線」だ。それが曲紹介や番組のタイトルまでカメラから目線を少々ずらしていかにも「読んでいる」風なので、視聴者は興ざめする。「このくらいのこと、きちんと頭に入っていないのだな」と思うのだ。

そうすると普段の心がけが透けて見えてしまう。きちんと準備しないのではないか、適当に番組のことを考えているのではないか。いくら思いやった発言をしたところで態度に出てしまうという意味で、怖いことである。

関連して、「この曲は当時そんなにヒットしなかったよな」という記憶が鮮明な場合の曲紹介で「当時大ヒットした・・・」と語りだすのも、その場しのぎのやっつけ仕事だと思う。自分に振り返り、そういう印象を人に与えることはないかはっとするのだが、人のなすことはよく目に付いてしまう。

2010年11月7日日曜日

涙腺を刺激するドラマ・・・NHK連続テレビ小説「てっぱん」

NHK連続テレビ小説「てっぱん」が面白い。毎回、涙腺を刺激するシーンが盛り込まれ、いつの間にか感情移入している。21世紀に入り、作り手が同世代や下の世代になりつつある中、丁寧な作りが伝わってきて好感が持てる。

尾道の景色、坂道や緑、水道、船。そして人情。こうした贅沢な背景を味方に、ドラマは描かれている。大阪に舞台が移っても、「尾道風味」が利いている。

そして主軸は家族や人のつながりに置かれている。養女だったことが分かった主人公あかり(瀧本美織)。ともすれば叫びわめく、迷惑な主人公にとどまりがちだが、感情を抑えて演技するあたり実力の高さを見せている。新人女優の登竜門としてのNHK朝ドラの面目躍如といったところだ。ふっと見せる翳も強さで跳ね返す。ご都合主義に陥りがちであっても、あかりのキャラクターとして流していけるように映っている。

白眉は富司純子。キャラクターにないような毒をはくきっぷの良さと、娘と分かり合えないまま生き別れた親の後悔や哀しさを表情で演じ、ドラマを引き締めている。嫌味なキャラクターでは見る者を負の感情に流し、裏腹な感情を示すときには同情を誘う。孫と暮らし始めて気持ちがやわらかくなっていく過程をしぐさや顔つきで表すところに女優としての力強さを見せている。彼女の代表作になるはずだ。

芸能事務所の力関係やバーターの色が濃いと、それは視聴者に伝わってくるものだ。製作者側が視聴者に対し「これは面白いだろう」と半ば押し付けがましい演出を始めても、それは悪ふざけにしかならない。大手事務所におもねった配役や主題歌、努力を感じない演技。そういうものがNHK朝ドラにさえ目立ってきていたが、今回の「てっぱん」は毛色がやや違うようにも映る。安田成美のNHK朝ドラ復帰、尾道出身の大林宣彦監督作品の常連だった尾美としのりの出演。そしてともさかりえが期待以上の好演を見せている。

人のつながりのいとおしさが描かれている「てっぱん」。この調子でおもねらず進んで欲しいドラマが始まっている。

2010年10月31日日曜日

土曜ワイド劇場「天使が消えていく」(賀来千香子主演)

台風が関東地方に接近したせいで、土曜日は外出をキャンセルした。仕事のことを考えず、何気なくテレビを見ると、土曜ワイド劇場。新聞広告も大きく出ていた夏樹静子原作の「天使が消えていく」。新聞記者が主人公で、地方に飛ばされ悶々としているという設定に惹かれた。主演は賀来千香子。

賀来千香子のドラマを見るのは久しぶりだな、と思う。以前「世界ウルルン滞在記」でバッグ作りを営む夫婦の家に行っていたのを見たが、人生経験を積んだある程度の年齢でのホームスティはなかなか良かった。贔屓目に見ているせいもあろうが、そういう真摯な姿勢を感じる女優のドラマ、という先入観を持って見た。

記事で書いた難病の子どもの母親は酒に酔い、生活も自暴自棄的。取材先との距離感はともかく、子どもの退院を喜ぶ主人公。来たくもない町で、子どもをあやすことに喜びを見いだしている。自堕落ふうな母親役を京野ことみが演じていたが、悪態をつき叫ぶ姿に成長を見た。まさに化けた印象。「あんたのやっていることは母親ごっこ!」と賀来をなじる修羅を表現していた。そして主役の賀来も職場で上司(一瞬分からなかったが五十嵐めぐみ、TBS連続小説「さかなちゃん」のヒロインでしたね)が「辞めたければやめなさい」の一言に「来たくて来てるんじゃないわよ!」と啖呵を切って感情を噴出させていた。東京で活躍してきた記者の、もしかしたら薄っぺらい「プライド」を持つ人間を持て余す職場の雰囲気が出ているシーンだった。

子どもにかかる手術代をどう捻出するのか。地上波デジタルのデータ放送であらすじに「母性とは何かを問いかける」と書かれていた。展開はスピーディで次が気になるドラマに仕上がっていたが、いかんせんコマーシャルを除けば2時間もないとなると粗削りになりかねない。主人公の女優の美しさ(目が大きいなあ、とか、おしゃれな服だなあ、足長いなあ)という面でカバー、といったところか。昨今の見る気が起きない子供向けドラマではない作りが好感を持てた。展開がご都合主義に進む面があっても、まあ許せるという内容だった。

2010年9月25日土曜日

江守徹主演舞台「麦の穂の揺れる穂先に」(NHK教育で放送)

NHK教育の「劇場への招待」。金曜深夜に冒頭50分ほど見逃しながらも、その後は一気に楽しめる舞台中継だった。平田オリザ氏の丁寧な脚本に支えられ、主演の江守徹の実力を感じさせる舞台で、ほとんど江守徹の演技力を味わうために見ていたような感じだ。

結婚しない娘を案じる、妻に先立たれた父親というのが江守の役柄だ。娘は父親が一人になってしまうことが気がかりで婚期を逃しつつある。いざ娘が結婚してしまうと孤独が押し寄せる。式が終わった日、姉夫婦などが家まで訪ね、そこで「どうだ、寿司でも取ろうか」と江守が皆に呼びかけるシーンは出色の場面だった。それぞれ家に帰る来客たち。無理強いはしないよ、と言いながらも、寂しさが募っていく心の動きをラストに向けて巧みに表現していた。それは窓を眺める行為や所作、ピアノの音色が響く部屋。円熟した大人が持つ悲哀や機微が表れている。

気を入れて見ていなかったが、舞台に打ち込んできているプロフェッショナルの演技をもっと味わうべきだと感じた。言葉の発し方から間の取り方までそこには人物が生きている。エンターテインメントを追求してきた俳優の強さを見て、続けていくことの強さを教えられた気がする。

アイルランドが調味料のようになっている物語も親近感がわいた。劇場で見るとより物語に共感するものがあるのだろうが、テレビではその表情を追うことができる。心配な親心と娘を送り出す安堵と孤独感。生きることの複雑さを感じられる舞台だった。

2010年9月19日日曜日

ガサコ伝説-「百恵の時代」の仕掛人(新潮社刊)

昨晩、書店で購入し、一気に読み終えた。購入時は1600円が高い、と感じ、ポイントで無料なら価値があるかもしれないが、お金を出してまで読むべきだろうか、と躊躇した。それでも、新聞記者出身のフリーランスライターの手によるものである、という事実が気になり、ひいては「百恵の時代」という言葉に、芸能人に取材をしているという点にひかれ、購入した。

月刊「平凡」の一編集者の生き様に迫るのが本書の趣旨だ。百恵の時代、というよりも、歌謡界、芸能界のかつて隆盛を極めたころの時代という気がする。猛烈に仕事をする裏側でかかえていたであろう孤独に対する共感が、この本の底流にあるようだ。

下世話に言えば、タレントがタレント自身ではなく編集者について積極的に話している、という事実に少々の驚きを感じる。自分であこがれた世界だけども芸能界にいればつらい時がある、そのときにそばにいてくれた人だった、というくだりが出てくるが、読者としては「そのつらい時って何だろう」と興味を持ってしまう。編集者の話が主題の本書には確かに直接関係がないのだが、芸能界の裏側をつかむという目的がずっと気持ちを支配して読み進めていたため、どこか筋違いかもしれないが食い足りないと思ってしまうのだ。

もっと言えば、70年代後半からのアイドル全盛時代、タレントは何を感じていたのか、という、編集者の生き様とは違う興味が起きてしまう。山口百恵はどういう人だったのだろう、その当時のアイドルたちの人間模様はどうだったのだろう、という興味が続いてしまうのだ。百恵の時代、という70年代半ばから後半に特化するだけでもエピソードが豊富にありそうだが、それは「あの輝いた時代」と題すべき本で別途進めればよいかもしれない。そしてそういう興味なら自分で書き進められないか、などとも考えてしまう。

膨大な取材を続けていたのだ、ということは読んでいて分かる。この人はこういった、別の人はこう述べた、という羅列にならないように工夫し、構築する作業も大変なものだったことは想像がつく。形のないものを練り上げていく作業は根気がいるはずだ。

年表がついているといい、と感じた。平凡が登場した時代の背景はその後の日本の世俗の変遷を考える上で役立つ。そして芸能界という人々の夢とリンクした年表を理解することは日本社会を考える有益な資料になるはずだ。さらにそこを生きた雑誌メディアの人の心意気がエピソードを介して伝わってくるのではないだろうか。

事務所が牛耳り、編集に介入するようなことすら現代はネットを通じて人々が理解し始めている。作り物の白々しさ。ネット時代の直前にはインタビューが多く掲載される雑誌があった。そしてその前が「平凡」のような雑誌の時代だった。百恵の時代、というなら山口百恵に関するエピソードから描けるものがあったと思うが、すでに時代を形容するほどの存在に山口百恵が巨大化してしまっている現代がある。人々が店頭で本を取るには十分に目を引く。正確に言えば、歌謡界と雑誌の関係を記述している本なのだ。

まずタレントの取材がもっと多いと良かった。そしてレコード業界、事務所サイドの取材ももっと欲しい。彼らが「平凡」をどうとらえていたのか、が重層構造を生み出すはずだ。人気稼業と掲載スペースの関係はスリリングな場面だが、いささかあっさり記述されている。もしかしたらそこにこそ、ここで描かれる編集者の真骨頂があったはずだ。1~2人のエピソードでは物足りない。すべては下世話な興味からきてしまうのだが。

この本の趣旨は一編集者の人生で、すでに当人が他界してしまっている。だからこそ惜しい。当人から見えた風景は違っていたのではないか、と思えてしまう。それでも一気に読めた。仕事に情熱を注いだ編集者の勢いが伝わってくるからなのかもしれない。

2010年7月21日水曜日

ビルボード東京 「シーナ・イーストン 東京公演」

7月20日、日本公演最終日の第1部を見てきました。仕事が終わらず、実際着席して楽しんだのは「ユア・アイズ・オンリー」から。2007年1月だったか、東京コットンクラブでの公演以降、基本的に同じバンド構成のようで、フィリップ・イングラムさんも一緒でした。

ややハスキーがかった声でしたが力強さは健在。英語がよく聞き取れず、残念なのですが「若いときは世界を征服できるって考えてしまうものだけど、年を重ねてみるとそれはそれでいいものだ」というような話をして自分を力づけてくれる曲として知らない歌(バラード)を披露しました。

その後は「モーニングトレイン(9to5)」。ドラムのリズムが力強く、ライトも黄色や青などカラフルなステージング。サビカラ繰り返しへつながる高音部分もよく出ていました。これならオリジナルアルバム、まだまだ現役でいける!と素直に思いました。いったんステージからはけて、アンコールの声に促され「モダンガール」。もっと聞いていたい、という余韻のままステージは終わりました。

胸躍る興奮、という感覚とは違うけれど、あたたかさがしみ込んでくる内容でした。ネットで調べてみると今回のセットリストには80年代を沸かせた「ストラット」「シュガー・ウォールズ」「テレフォン」「愛・ひととき」「ラヴァー・イン・ミー」も披露したようですが、これは前回、前々回のクラブハウスツアーと同じだったようです。

う~ん、今の流行とは違うのでしょうが、オリジナルをコンスタントにリリースできる実力はあると思うのですけれど・・・。75分程度のショウもいいのですが、やはり89年11月の渋谷公会堂が強い印象にあるだけにもっと聞き込みたい、と思います。当時は「ラヴァー・イン・ミー」の大ヒットを引っさげての来日だったので同アルバムから披露しましたがチャーミングなダンスもまじえた「ノー・ディポジット・ノー・リターン」や「ワン・ラヴ」は今でも鮮やかに記憶に蘇ります。

今回はやらなかったようですが「哀しみ色に染めて」や「愛にDO IT」、「世界中のクリスマス」、「マジック・オブ・ラヴ」といったファンならついてこれる曲も披露してもらいたいな、と思います。ヒット中心の構成はいかにも王道すぎるぞ、という気がしないでもないのですが、ファンとしては元気で来日してくれるだけでもありがたい、という心境。正直、六本木に行くまでは意外性がなければ今回はいいかな、などという気持ちに傾きそうになっていたのも事実でして、結果は行って正解だったのだけど、次にはもっとディープなシーナの世界を堪能したいと思います。情熱的な「フォロー・マイ・レインボー」、80年代の独特の香り漂う「ベスト・ケプト・マン」、プリンス作で新境地というイメージだった「101」、バラードアルバムで成長を感じさせた「ラスト・トゥ・ノウ」、聞きたい曲はいろいろあります。

MCで人生を語ったところに、シーナの年輪を感じました。だからこそ歌える曲もありそうです。レコード会社との契約、という時代ではなくなりつつあるのかもしれませんが、ショービジネスで鍛えられ、そして現役で歌い続けているシーナの今を感じたいと思いました。

2010年7月19日月曜日

日本テレビ「NEWS ZERO」

もはや報道番組というよりも、ニュース娯楽ショーの体裁である。背景に音楽をつけ、集中豪雨のニュースを伝える。番組のサイトにある動画コーナーでは放送局の出資するアニメーションを無邪気にキャスターが語り合っている。もちろん宣伝だ。こういう娯楽化した報道番組を批判すること自体、もう陳腐な気がしてくるが、そしてこういう番組が意外に視聴率を稼いでしまったりするのでため息をついてしまう。そして製作者側が「どうせ視聴者はバカだからこういう単純化して、楽しい話題で押していけばいい」などと多分考えているんだろうな、というのが想像できてしまう番組だ。

それなりに人生の辛酸をなめる経験をしているのかもしれない。視聴者の見えないところで血のにじむ努力をしているのかもしれない。それにしても作りが軽いのだ。そして報道が軽くていいのか、という疑問が抜け出せず、「ああ、見てしまった」という思いを感じながらこの番組を眺めることになる。

1日の動きを時間ごとの刻みで見せてくれる。午前にこういう話題があったのだ、と整理することができるのはありがたい。気がつくと軽快な音楽が背景に流れている。それが天災によって命が失われた話題であっても、だ。こういう配慮のない伝え方はやめにしないか、と誰も言わないのだろうか。

先日は村尾信尚キャスターが英国大使館で英国の外相をインタビューしていた。「“英首相の右腕” 英 ヘイグ外相×村尾信尚」というタイトルがウェブで紹介されている。VS、というには程遠い、「僕は英国の外務大臣に会ってきた」というだけの内容だった。日本の印象を尋ね、英国での連立政権の経験から菅に対するアドバイスは何か、と質問する。中国の経済成長と日英の役割、という話題でも「同じ島国で民主主義国家である」という誰でも言いそうな結論にとどまってそれで笑顔で締めくくっている。

日本の政治は英国のクエスチョンタイムを参考に党首討論を入れている。参考にした政治システムのはずが、二大政党の国民による信頼が揺らぎ連立を組まざるを得なくなっている英国のいまをどうして斬り込まないのか。「二大政党に対する国民の信頼がなぜ揺らいだとみているか」と聞けばいいはずだ。そして「国債の利回りが急伸した数ヶ月前の動きを見ると、財政赤字の拡大は危ういはずだが、日本も同じ問題を抱えている。この局面をどうすべきなのか」と尋ねて欲しい、と思ってしまう。英国の消費税引き上げについて突っ込んでもいい。

結局、そういう問題意識を持つ人々はこうした番組を見ないのだ。「だって日テレに期待したってねえ」ということなのかもしれない。本当に知りたい人は自分で調べ、CSでBBCを見て、ウェブでFTを読むのかもしれない。すると、ここでこうして悪態をついていても仕方ないのだろう。報道娯楽、なのだから。ただどうしてもこだわりたいのは報道が娯楽であっていいのか、という点だ。報道に携わるなら、いま伝えるべきことは何か常に研ぎ澄ます気構えが必要かもしれない。そこが誰でも情報発信できる時代の、「誰でも」でないレベルを保証すると信じたいのだ。

2010年4月29日木曜日

NHK「ラジオ深夜便」と話のプロ

1日の疲れを癒す目的で、眠りにつくときにラジオをつける。聞くのは「ラジオ深夜便」だ。人生や海外の暮らしの話題に耳を傾ける目的だが、NHKのアナウンサーであっても話のプロが少なくなっていることを感じる。それはアナウンサー自身の自我や自己顕示欲と関係しているからかもしれない。黒子である前に、アナウンサーとしての「自分」が前面に出てくる感じ。これはニュース番組のキャスターにも感じられる。言葉を丁寧に話すよりも感情を優先し、時には安っぽく驚きはしゃいでみせたりする。話すロボットではなくそれが人間らしい伝え方だ、という考えなのだろう。

そうした風潮が画面から感じられ、だからこそベテランのアナウンサーが担当する「ラジオ深夜便」に期待するのだが、最近は若手も起用されるようになった。話す速度が一定でなく、スピードを上げたかと思うと急に立ち止まるように沈黙するアナウンサーがいる。気になりだすと妙にいらいらして落ち着かなくなる。音楽を特集するコーナーでは恐らく資料に書いてあるだろう、作詞作曲のデータを読むことこそするが、別にその楽曲にまつわるエピソードを紹介するわけでもなく、調べてもいないのだろう。「このときはこんなことがあったんですねえ」「この歌がはやっていたときはこういうことしてました」ということを話すだけなら随分楽な仕事だと思う。

邪魔にならない話し方は難しい技術が必要だと思う。ラジオのトーク、しかもNHKとなればその完成度に期待してしまう。普通でいい、ということとはわけが違うのだと感じつつ、それを自分の仕事と置き換えて考えると日々に余裕がないせいもあるかもしれないとも思ってみる。

2010年3月31日水曜日

NHKのワンセグ放送

携帯電話のデジタル放送は結構便利で使っています。移動中にテレビ番組を持ち運べるというのは結構なかった体験で、疲れているときはそれでも見る気が失せたりするのですが、人に「あの番組でこういっていてね」などと話を振るとき、携帯を見せながらテレビの話ができるのは便利だと思っています。

そしてこの地上デジタル放送の受信携帯にSDカードのチップを使って番組録画をやっているわけですが、特にNHKの語学番組を録りだめしています。それが2009年度はワンセグ独自番組というのが入って地上波アナログ放送とは別のしろものを放送していたんですよ。クイズとか大河ドラマダイジェストとか。いかにも試験的にためしてます、みたいなもので、語学番組を通常のように放送してくれることを願っていました。実際にNHKにアナログと番組が違うことを問い合わせてしまいましたが、決まってしまったことだから、という回答で1年間我慢しました。

それが2010年度は語学番組はきちんとワンセグ放送でも番組表に組み込まれているんです。これはうれしい。声が届いたのか、などと思ってしまいます。

タレントを多用しバラエティー豊かになっていくのは気がかりですが、教育的要素はまだ残っています。あとはこちらの活用の方法次第でおいしさが広がっていくのかもしれません。

2010年2月8日月曜日

マイケル・ムーア監督「キャピタリズム」

「キャピタリズム」にはサブタイトルがあって、「マネーは踊る」となっている。配給はショウゲート。東芝エンタテインメントから商号変更して、博報堂DYメディアパートナーズの完全子会社になった会社のようだ。邦題をつけるのは難しいのだろうか。公開からしばらくたって観たが、劇場は満員だった。しかも客層はおとな世代。マネーは踊るっていう話が主題ではなく、原題はサブタイトルが「ア・ラブ・ストーリー」なわけであり、もう少しセンスの感じるタイトルにしても良さそうだ。このあたりに時代の空気を読む努力を怠る業界体質、というべきか、映画宣伝独特の「かたい題名だと人来ないし」みたいな目線を感じてしまう。

マイケル・ムーアの作風はいろいろな映像をミックスして、本人が突撃していく、というパターンで、今回もそうなのだが少々飽きてきた感は否めない。話も何となく行ったり来たりする。NHKがマネー資本主義のドキュメンタリーで数学を学んだエリートたちが金融工学を開発していた話を紹介したことがあったが今回の作品にも入っていた。何かがおかしい、という話は例えばパイロットの薄給や生活費のためのアルバイトで疲れきって事故につながること、失業に直面する人々の挿話などと織り交ぜて、危機感の薄い政治や当局者に目線が向けられている。

自分の意識を高めることやきっかけになる作品になっている。個人的には株式相場の下落につながった米議会の法案審議のくだり。大幅安という「恐怖」を演出し、公的資金による救済を通したという話はしばし忘れていたことだった。そして実際に議員が演説で、家の退去を命じられても居座れ、と言っていたのも知らなかった。米国の議会をよく聞いてみるとこうした熱いものを打ち出す議員がいるのだと感じた。

仕事だから、と家を立ち退かせ、ドアに板を打ち付ける人。金を返さないのが悪い、働いた結果稼いで何が悪い。そうした社会の断面を見せてもらいながら、そういう姿を後追いしている日本のことを考えた。

2010年1月23日土曜日

東映配給「今度は愛妻家」

薬師丸ひろ子の映画、という味わいの作品だ。2時間を超す映画でありながら飽きさせない。題材はありふれているような気がするが、監督の狙いの1つであろう「役者で魅せる」という映画に仕上がった。伏線はいろいろ描かれている。差し出されたお茶が減っていない。旅行に行っていたり、しばらく姿を消したり。そうした伏線が最後にきてつながるという展開だ。ファンタジー、それは物語の世界。薬師丸ひろ子演じる妻の可愛らしさや無邪気さが、豊川悦司演じる主人公の男の身勝手さもあいまって、印象的に描かれている。

石橋蓮司の存在感で、作品が新たに引き締まる。ベテランはここぞという時に期待通りの安定感をみせてくれる。若者もその若さが味わいを出していて、主人公夫婦を引き立たせている。

人はなぜ結婚するのだろう。単純に「好き」という感情が結びつけているのかもしれない。そしてそこから理想が膨らみ、現実が続くうちにすれ違っていく。つまらない日常に横たわっている心地よさや楽しさ。手放したくないという思いすらも気がつかずにいるという毎日。

どうしようもなく、離れていかざるを得ない状況。それは受け入れられない、そんな現実は嫌だと思っても抵抗できない運命がある。だからこそ人とのかかわりは大事にしていく必要があるのだろう。

映画作品として、テレビにありがちな軽量感とは異なる質感がしっかり出ている。やはり劇場で見たい映画だ。薬師丸ひろ子の新しい代表作が生まれた、と言っていいだろう。

2010年1月9日土曜日

NHK大河ドラマ「龍馬伝」

NHKが大々的に宣伝をしていた今年の大河ドラマ「龍馬伝」を見た。

上級武士と下級武士の間の身分の差を軸に描いた第1回だが、恐らく主人公龍馬の心の軸となる原体験なのだろう。比較的丁寧にこのつらさを描いている印象を持った。同じ人間である、というのに片方は権力を誇示し、片方はののしられさげすまれる、という対立軸はいまも日常で味わうことだ。ドラマを見る場合には主人公の心情に肩入れしながらも、現実の生活で己はどうしているのか、と問いかけてくるものがあった。

主演の福山雅治。俳優として大きな挑戦の機会を得ているが、第1回では気負いは感じられずむしろ淡々と演じている感じだ。香川照之、寺島しのぶらが印象的な演技を見せている。理不尽なことで命を落とし涙する子供の心。身分格差を軸にこうした原体験をきちんと描いていて、福山雅治は抑えた演技で表現していた。

画面を揺らし、ドキュメンタリー風の演出をしている工夫は時に製作者側の意識過剰がドラマの中身を上回ってしまいがちな気がする。ただ明治という時代に乗り出す前夜の人々の「熱」や実話の持つ現実味、そして桂浜での姉弟の剣の打ち合いのラストシーンで描かれる心情が今回は演出意識を凌駕していた。次を期待させる第1話になったとみている。

はじめに

このサイトでは日本の映画や音楽、テレビ番組などを中心にエンターテインメントと言われる分野に関する思いを綴っていくことを目的にしています。個人的な見解や備忘録の意味も持っています。世の中に数ある見解の1つ、という感じで、気軽に書き込むつもりです。